大判例

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東京高等裁判所 昭和33年(う)2497号 判決

控訴人 東京地方検察庁検事正代理検事 岡崎格

被告人 富田栄

弁護人 安藤宇一郎

検察官 山口鉄四郎

主文

原判決を破棄する。

本件を東京地方裁判所に差し戻す。

理由

本件控訴の趣意は東京地方検察庁検事正代理検事岡崎格作成名義の控訴趣意書に記載されたとおりであるからここにこれを引用し、これに対し次のように判断する。

検察官の控訴趣意第一点について。

よつて按ずるに、刑法第二百十一条にいわゆる業務とは、原判決の説示するとおり、人が社会生活上の地位に基き継続して行う事務であつて、その性質上、人の生命身体に対する危険を伴うものを指すと解すべきところ、原審において適法な証拠調を経た原審証人水橋宏、同木下久次の各証言並びに被告人及び原審相被告人水橋章吉の原審公廷における各供述等を総合すれば、被告人は昭和三十一年一月十四日職業安定所の紹介により特に犬の飼育訓練に経験を有する者として水橋章吉方に雇われ、同日より同月二十八日頃までは主として犬の給食を担当し、同月二十九日頃より本件の発生した同年二月四日に至るまでは、右給食の外、一日一回約二時間水橋方の飼育犬グレートデン種二頭に引綱をつけてこれを運動させ、その他犬の手入れをしていたものであつて、被告人の水橋家における主たる任務が右の如き犬の飼育訓練であつたことを認めることができ、しかも、本件の場合の如くグレートデン種のような巨大犬を飼育訓練するについては、屋敷内においてはこれを繋留し、街頭において運動させる際は、一回に一頭宛運動させるとか、犬に口輪をはめるとか、その他特別の注意を払わなければ、通行人等に危害を加える虞なしとしないのであり、そのためにこそ、被告人が専門的にこれらの事務に従事する飼育訓練係として水橋家に雇われたものであること叙上のとおりであるから、このような犬の飼育訓練係としての被告人の地位は、獣医師の免許の有無にかかわらず、まさしく叙上の意味における業務に該当すること明白である。しかるに原判決は、被告人が水橋家に雇われた時獣医師の免許を有することを秘匿していたこと、その給与が安く獣医師としての待遇を得ていなかつたこと等を理由として、被告人は犬の世話をその一部とする雑役的労務に従事していたものと認定し、かかる労務は本質的に女中、下僕のなすことと選ぶところはなく、前記法条の業務とはいい得ないと説示して、本件を通常の過失致傷罪とみなし、親告罪につき告訴のけん欠することを理由として、公訴棄却を言い渡したのである。してみれば、原判決は証拠の判断を誤つて被告人の地位に関する事実認定上の過誤を犯し、ひいて法令の解釈適用を誤り、これを前提として、不法に公訴を棄却したものというの外はない。論旨はすでにこの点について理由があるから、爾余の論旨について判断するまでもなく、原判決は破棄を免れない。

よつて刑事訴訟法第三百九十七条第三百九十八条に則り原判決を破棄し、本件を東京地方裁判所に差し戻すこととし、主文のとおり判決する。

(裁判長判事 岩田誠 判事 八田卯一郎 判事 司波実)

検事岡崎格の控訴趣意

第一点刑法二一一条の「業務性」について

一、原判決は「刑法二一一条にいわゆる業務とは人が社会上の地位に基き継続的に従事する事務にしてその性質上通例人の生命身体に対する危険を伴うものを指称すると解すべきところ、犬の世話をその一部分とする雑役的労務に従事することは本質的には女中、下僕のなすことと選ぶところはなく同法の業務とはいい得ないのである」と判示し、被告人が獣医師として雇われたものでもなく獣医師として待遇されてもいなかつたと認定して刑法第二一一条にいわゆる「業務性」を否定しているが如くであるが、検察官は被告人が飼育係として雇われ且又現実に飼育係としての仕事に従事していたことを理由に業務性を主張していたのであるから原判決はこの点において検察官の主張を誤解し又は十分理解せず軽々しく「業務性」を否定した誤を犯している。獣医師として雇われ獣医師として待遇されたかどうかは形式の問題であつて刑法二一一条の業務性の認定に不可欠のものではない。問題の焦点は本件犯行当時被告人が水橋方において如何なる仕事をしていたかにある。そこで証拠に即して検討するに証人水橋宏は「飼育係を雇う時、犬の世話をし、手がけた経験のある者を職安に申込み富田君を世話して貰いました。狭くて危険な場所だから犬に運動させて貰うということで雇いました。私の家では富田君を犬の飼育係として雇つたのです。」(一二〇〇、二〇六、二一〇丁)と証言し、水橋章吉も亦「雇人の木下に命じて犬の飼育及び訓練(運動)等犬を扱うことについて経験のある者を雇入れたいから、職安に紹介してくれる様申込方を云いつけて富田を雇入れました」旨を陳述し(二七三丁、一一四丁)更に、証人木下久次は「下落合の住居は広かつたが現住所は狭いから犬の飼育に経験ある者を見つけて来いと主人から言われたので職安へ行つて申込みました。」(二一六丁)「職安に行つて犬に慣れ犬の好きな者で経験のある者を頼んで申込み私は担当官に家にはグレートデンが二頭いる。その飼育係が欲しいということを言いました。又朝、昼、夜三回に亘つて犬に運動させ夜犬に対し食事の世話をしたりその他犬小舎及びその周囲を掃除するということも述べておきました」旨(三四〇丁乃至三四四丁)を証言しており一方求職者たる富田も亦これらの証言等にそう如く「新宿職業安定所の紹介で下落合の水橋方に住込み月四千円の約束で雇われ、主として犬の飼育運動等の仕事に従事しておりました(一四九丁)。水橋方へ最初に行つたとき犬の話が出ました、それは犬の世話と家の雑役の両方をやつてもらうが主として犬の方をということでした。」(二五一丁)と陳述しているところより明白の如く被告人がまさしく犬の飼育訓練係として雇われたことは証拠上少しの疑もない。更に実際の仕事の面を見ても、被告人の言う如く「業務は家の掃除と主として畜犬の世話をしていました。一月十四日から同月二十八日迄は犬の給食だけをしていました。犬の運動は一月二十九日頃から一日一回約二時間位引き綱をつけて運動をさせて後は犬の手入れ(犬の身体にブラシをかける)をします。畜犬の種類はグレートデン二頭とその他に秋田犬の呼名五郎の三頭を飼育していました。」(一三九、一四〇丁)というのであつて、被告人が現実に犬の飼育運動等に従事していたことは極めて明らかなところである。斯様な被告人富田の身分を飼育訓練係と呼ぶか、或いは犬の世話をも内容とする雑役と称するかは単に表現上の問題に過ぎず、要はその実態をいかに考察するかということにかかつている。仮に雇われる際免許のことを秘匿していたり、獣医師としての待遇を受けていなかつたとしてもこれをもつて被告人が犬の飼育係として雇われたことを否定する理由にはならない。

二、原判決は「犬の世話をその一部とする雑役的労務は本質的には女中、下僕のなすことと選ぶところはない」としているが、若しその趣意が犬の世話が予め定められた継続的な仕事の内容となつてはおらず偶々女中等が個別的な指示乃至は思いつきで犬の世話に当つた場合と同一に論断しているのであれば根本的に事実を見誤つていると言わざるを得ない。またもし原判示の意味が被告人の水橋方における仕事の多くの部分が雑役にあつて犬の飼育の如きは極めて一小部分にすぎないとの意味であれば明らかな事実の誤認である。通常考えられている女中、下僕の労務はその活動の範囲か同一家庭内にのみ限定されていて社会性に乏しいばかりでなくその労務の内容も極めて一般的なものであるため、これを特殊な刑事責任を要求せんとする刑法二一一条の業務中に加えるべきでないとの説を生ずるのであるが、被告人はかかる女中、下僕ではない。証拠に徴すると水橋は「戸外で犬の運動をさせるということで特に犬の飼育経験のある人を申込ませて富田を雇つた」(二七三丁)と述べているし又証人木下は「犬を飼つていないとすれば富田を使う必要はなかつたのです」(二一八丁)という趣旨の答弁をなしており右両名並に証人水橋宏の言に照せば水橋方では「常に犬の飼育に従事する殆んど専門的な使用人を雇い之らをして犬の世話を取扱わせ」ており家人が之に当らなかつたことが明らかである。

三、元来刑法二一一条の業務とは判例上「人がその社会生活上の地位に基き継続反覆して行う仕事であつて、一般に人の生命身体に対する危険を伴うもの」をいうとされており(大審院大正八年十一月十三日。同院大正十三年三月三十一日各判決)、被告人の仕事は右の標準に照し明らかに法に謂う業務に該るのである。すなわち被告人が水橋方において担当していた仕事は、社会的に認められた特殊の経験技能により犬の飼育運動に当ることを職務とする者の行う犬の飼育運動であつて、それはいうまでもなく継続的なものであり正に人命身体に対する危険を伴うものなのである。

(一) もともと刑法二一一条の業務の概念如何という問題は業務上過失が通常の過失に比して重く処罰される根拠如何という問題と極めて密接な関係があるのであり、学説上争のあるところであるが、反覆継続せらるる性質を有し、社会的に危険な仕事にともなう過失は通常の過失に比して違法性が強度であるという点に重い制裁を課する根拠を求めるのが、至当であろうと信ずる。被告人の本件過失は正にかかる評価を受くべきものである。また、ある行為が刑法二一一条の業務行為であるためには、行為者が社会生活上本来の仕事としてなすものに限られるか、それとも本来の仕事に附随してなされるもの、或いは本来の仕事を補助するためになされるものを含むか、更に本来の仕事とは関係なく単に便宜、娯楽の目的で為されるものをも含むかということが問題となろう。この面において判例の一般的傾向が業務の概念をひろく解する立場にあるといい得ることは大正七年十一月二十四日、大正八年十一月十三日、大正十二年八月一日の各大審院判決に照して明らかであり、これと並んで単なる娯楽のために自動車を運転することも業務であると判示した昭和三十二年五月二十日の大阪高裁判決に徴すれば判例は前示したそれらをすべて業務行為の概念に含ませていることがうかがえる。ある行為が本業として行われると、本業の補助手段として行われると、附随して行われると、また単なる便宜、誤楽のために行われるとを問わず、行為そのものの社会的危険性と行為者に要求される注意義務に差異を生じないものであれば、これを反覆、継続してなすときには業務であるといつて差支えないところである。行為がどのような目的でなされるかにかかわらず当該行為にともなう過失の社会的な重要性に着目しなければならない。しからば犬の飼育乃至運動ということが本来的には水橋個人の趣味、娯楽に出てたものであつても、また被告人の仕事のある部分が雑役的なものであつてもそれは被告人の本件過失の業務性に些かも消長を及ぼすものではない。

(二) 次に業務の危険性について考えてみたい。

原判決も他の多くの判例と同様ある仕事が刑法二一一条の「業務」となるためにはその性質上一般的定型的に人の身体生命に対する危険を包蔵するものであることを要求しているからである。ただここで留意すべきは判例が刑法二一一条の業務であるためには「通例」又は「性質上一般的、定型的」に人の生命身体に対する危険を伴う仕事であることを要求しているけれどもそれは畜犬の飼育運動一般を見てその危険性の有無を論ずべきであるとしているのではなく限定された種類の犬の飼育、殊に運動についての危険性を考えるべきであるということである。原判決がもし畜犬一般についてその飼育運動業務の危険性を考え、本件事案についてその危険性を否定したものとすれば誤といわなければならない。本件で問題とされている畜犬は世界で最大の体躯を有していると言われているセントバーナード種に次いで二番目に巨大な犬種と信じられているところのグレートデン種である。原判決の指摘するとおり「右畜犬二頭はいづれも身長一米二〇糎位、体重十二貫位の巨躯」である。しこうしてその体躯が巨大であるということは当然のことながら力が強大であつて畜犬種の中では猛犬と謂うにふさわしい犬種である。そして「一見しておそろしさを感ずる容姿」であるとも述べている。更に判決は続けて「邸外運動をさせる時は街上にて通行人殊に児童等に行き合いその者等が畏怖し警戒の姿勢をとることもあり得るので、かかる場合畜犬は通行人の警戒的動作を自己に対する加害行為と感じ該通行人に対して先制的反撃行動に出でることも考えられるところであるが、該犬はいづれも巨大にして強力である為、かかる突発時に、通行人に危害を加えないように制御するには人の体力からして一頭づつ運動せしむべく且該犬は下落合居住当時である昭和三十年五月二日頃外囲物を飛び越えて路上に出で、遊んでいた三才の女児に咬傷を与えたことがある」と説示し、なお弁護人の主張に対する判断のなかでは「犬は畜犬であつても動物としての本能を失うことはなく、自己防衛本能は極めて強いのである。何事もないときは温順な犬であつても、或事を自己に対する加害であると感すれば猛然としてこれに反撃を加えるのであつて、しかもその事たるや客観的に加害行為と見られるものであることを要しないのである。」「児童である佐野麗子がただ『こわい』といつて両手で顔を覆つたことのみより同人に飛びかかり、富田をも引倒し、同人の必死の努力にもかかわらず制御し得なかつたことは如何なる事情によるものであろうか。人間社会に於いて理性の弱い人々は仲間に対しては処女の如き柔和さをもち乍ら未知の人殊に好ましからぬ人に対しては目を疑わしめるような暴挙をあえてすることがあるが、理性のない動物はその極点にあるといわなければならない。飼育者に対しては従順なること猫の如き畜犬であつてもそれは本来動物であり、強い自衛本能を蔵していることを忘却し得ない」としているのである。かかる説示でも明らかなように本件畜犬のグレートデン種は巨大強力な猛犬で人力では容易に制御し難いのみならず現に近い過去に於て少女に傷害を負わせていた事実が存するのである。過去に於て咬傷事件を惹起した経験あり容易に人力で制御し難い巨大強力な猛犬について被告人はその飼育運動の業務を担当していたものであることを重要視しなければならないのである。刑法二一一条の業務性の意味をかように考え、被告人の現実の仕事をかように見るならば被告人に過失の認められる限り、本件事案は正に刑法二一一条の業務上の過失傷害罪をもつて論ぜらるべきものであり、原判決は被告人の業務の実体につき事実認定上誤を犯したか、刑法二一一条の業務の意義を誤解し、本来有罪とせらるべき事実につき公訴棄却の判決をするに至つたものといわざるを得ない。

なお最後に被告人の過失について一言しておきたい。過失も亦単に抽象的にではなく具体的な因果関係の進行について考えなければならない。本件の場合についてこれをみるならば前記の如きグレートデン種の畜犬を同時に二頭邸外運動させたということを前提とすべきである。この点について原判決は「所謂愛犬家といわれる人々は畜犬を以つて『愛すべきもの』と前提し、人々にこれを義務づけんとする傾向にあるが、これは人間に犬に対する寛容を求めるに止まるべきである。現代は人間社会であり獣類はその構成員ではないのであるから、人間社会に仲間入りせんとする獣類は『愛されるもの』となるべきである。然し乍ら、獣類としては自ら愛されることえの努力修練はなし得ないのであるから、これを人間社会に仲間入りせしめんとする人々がその責任に於て『愛されるもの』となるよう万全の措置を講じなければならないのであつて、如何なる目的にもせよ人間に危害を加えることを慫慂する意図の下にこれを飼育するが如きは現代を認識しないも甚だしいといわなければならない。畜犬に於ける訓練はこのことの為にこそ有意義であり、単に飼育者の好みを満足せしめるということに終つてはならないのである。而して、畜犬に邸外運動をせしめねばならないことは現下の住宅事情からすれば已むを得ないところであるが、巨大にして見るからにおそろしさを感ぜしめるような畜犬を邸外運動せしめるには、通行人の中にはこれを見て驚く人のあろうこと、その驚きが犬をして加害行為と感ぜしめるであろうことに思いをいたし、その際に処する万全の措置を講じておかなければならないのであつて、通行人に驚かないよう注意すべく求めることは許されないところである」と論じており、本件記録に照すと先づ被害者の佐野麗子は「私も根岸さんもこわいので立止りましたらその二匹の犬はこわい顔をして私の方へ向つて来たのでびつくりして助けてと言いました。その時二匹の犬が私に飛びかかつて来て胸や顎に咬みつきました。二匹の犬に石ころのある地面の上を引き廻され腕や肩や頭の後ろを咬まれたので麗子は死んでしまうのかと思いました。」(三三丁)と述べ被害者と同道していた根岸記子は「其の時麗子さんが犬がこわいと声を出しました。すると一頭の大きな犬が麗子さんに咬みつきました。麗子さんは道に倒れました。こんどは二頭の犬が麗子さんに咬みつきました。犬をつれた男の人は声を出してはダメと言つておりました。」(四〇、四一丁)と述懐し、目撃者の宇田川節子は「助けてと言う女の子の叫声が聞えたので私はびつくりして西海さんと一緒に飛出しましたら九才位のセーターを着た女の子が私方門の方に足を向けてあをむけに倒れ大きな犬二匹がその女の子の首や胸の辺りにかみついてその傍に三十二、三の男の人が犬の首に巻きつけていた革紐をさかんに引張つて居りました。私は恐ろしいので助け様と思いましたが女だけでは危いと思いました。」(四七丁)と陳べ、同じく太田美代子は「女の子がキヤツと言う声を出しました。すると先程の犬の一頭がいきなり女の子の肩の辺に咬みついて倒し桜井さんの塀の方に引きづつて行きました。するとその男の人も倒れもう一頭の犬もその女の子にかみついて行きました。その女の子は助けてと叫びましたらその男は声を立ててはいけないと倒れ乍ら言つて居りました。私はすぐ女の子を助け出そうと思い玄関に出ましたが二匹の犬が私方玄関の方に尻を向けて女の子にかみついていたので恐ろしくて出て行くことも出来ませんでした。」(六四丁)と陳述し、同じく桜井美代子は「私はびつくりし大きい犬二匹ですからその女の子を助け様と思つても女手では助け様がないと思い急いで家に戻り麹町警察署に電話をかけました。」(七一丁)と当時の情況を審さに説明している。最後に被告人自身の陳述するところによれば「若旦那の宏さんからその二頭の犬は人に飛びつくから注意しろと言われたことがあります。そして運動後に犬を手入れして居りましたがこのリリーとポピーは力が強く一頭を運動させるにもようやくの事でありました。このリリーとポピーは自分達にも飛びかかつてくるし運動中にも他の犬や猫をみると飛びかかりそうになるので通行人に飛びかかつて咬みついたら大変だと思い注意しながら運動させて居りました。その時向つて左側に居た女の子が二頭の犬をみて『まあ大きな犬ね』と言つたので私は犬に口輪もはめていないし力も強いので若し飛びかかつて女の子に咬みつくと大変だと思い声を立てないで下さいと言いましたがその時その左側にいた女の子が二頭の犬をみて恐れたのかキヤツと声を立てた瞬間私の左側に居たリリーが咬みつきそれと殆んど同時に右側のポピーも猛然とその女の子の胸の辺や両腕に咬みついて行きその場に女の子を倒して引きづり胸や顎の辺に咬みつきました。私はあわてて二頭の首輪の鎖をしめ女の子から犬を離そうとして力一杯引張りましたが犬の力が強く私自身も倒れてしまいどうしても犬を離すことができなかつたので誰か来てくれと叫びました。間もなく何処かの奥さんが一人走つて来てその女の子の両足を引張り引離そうとしましたが離れないのでその奥さんは何処かに行つてしまいました。」(一五〇乃至一五三丁)とあり更に裁判官の問に対しては次の様に答弁している。問 二頭だとどうか。答 特に困りませんが途中で急によその犬など飛出してくると困ります。一度猫が居てそれを二頭の犬が追つかけた為に私がひきつられて倒され垣根に引かけられてやつととまつたことがあります。(二五五、二五六丁)問 両手に二頭連れている場合に一頭が人に飛びついた場合に制止できるか。答 片手では無理です。(二六一丁) 問 では二頭の犬を連れて歩くのは危険で無理ではないか。答 無理と思います。(二六一丁) 問 この時犬が発情していたというが発情したときは違うか。答 違います。神経が過敏で兇暴化して来ます。発情は下落合の時からですから一月二十二日、三日頃と思います。(二六九丁) 続いて弁護人の発問に対しては。問 二頭の犬を運動に連れて歩くについて自信はあつたか。答 自信はありませんでした。(二六四丁) 問 この二頭の場合でも人に飛びかかつたとして注意しておれば倒されないで済むか。答 それは私の体力では無理です。(二六七丁)問 引綱を腰につけていたらどうか。答 その場合でも駄目です、身体ごと持つてゆかれます。(二六七丁)と陳述しているのであつて、本件畜犬がいかに人間の体力を以つてしては制御し難き猛犬であつたかということが理解できよう。そして被告人はそれを知り、然も事故防止のため必要な措置を講ずることなく邸外運動を行つたため本件傷害事故の発生を見たのであるから被告人に過失の存することは極めて明瞭である。本件事故防止のため必要な措置については原判決が原審相被告人水橋章吉に対する判示において示している通りであつてこれに加うべきものはない。ただ参考として「東京都飼い犬取締条例」を附加しておきたい、同条例によるとその第一条に該条例の「目的」として次の様に掲げられている。曰く「飼い犬が人畜その他に害を加えることを防止し……もつて社会生活の安全を図ることを目的とする」と。そうしてその第二条に於て「けい留義務」を課し「犬の所有者、占有者、管理者はその飼い犬をけい留しておかなければならない」と定めている。いま同条並びに施行規則に照すと邸外運動が許されるのは条例にあげられている場合にのみ限られ、その一つは「人畜その他に害を加えるおそれのない場所又は方法で飼い犬を運動させるとき」等に限られているのである。もつとも被告人は水橋の雇人であり主人の命令である以上二頭同時に運動せしめることはこれを拒み得なかつたとの主張も考えられるが、いわゆる期待可能性の理論は判例の認めないところであり本件事実亦かかる理論を容れる余地のないものであつて、この点について被告人の責任の有無を論ずる必要はない。

(その他の控訴趣意は省略する。)

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